革命【歴史】

十弧 ソ連 歴史
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Ураааааааааааа!


Здравствуйте!数十年前までこの世に存在していた巨大な人類の実験体の信奉者、十弧です。やって来ました11月7日!人類の歴史に一生残るであろう素晴らしき大革命から101年!タイトルからもお察し頂ける通り、今回はあの偉大なるボリシェヴィキの革命「十月革命」についてたっぷり2000文字くらい使って解説して____いきたいのですが。ですが。この十月革命、まったく画にも文にもならないくらいクッソ地味……おっと誰か来たようだ。
まあそんな訳で、十月革命というものはロシア革命における最後の仕上げ的な位置づけだったにも関わらず、その流れは驚く程速やか且つ静かだったのです。今日はそんな十月革命と、当時のレーニンさんスターリンさんについてお話ししていきます。参考とさせて頂いている書籍は『風刺画とアネクドートが描いたロシア革命』です。当時の風刺画やアネクドートににやりとさせられつつ、スターリンのヘイトトロツキーぶりにびっくりさせられる一冊です。興味のある方は是非是非。


簡単にこの十月革命を解説すると、二月革命の後、帝政を倒した革命家達は主に「臨時政府」と「ソビエト」に分かれていたのですが、レーニン率いるボリシェヴィキ(ソビエトの中の一派)が「あーもう帝国主義戦争続けるとか臨時政府まじアカンわ。あいつら潰して俺らが権力握らな」となり、当時の首都・ペトログラードの橋や駅、電子局や銀行、更に臨時政府が置かれていた冬宮へとなだれ込み、これらを占領。これが十月革命です。ね?簡単でしょ?(トリバゴ感)
という事で、その後のソ連軍歌にも多く用いられ、今でも第一次ロシア革命や二月革命よりも知名度が高いのではなかろうかという程の十月革命は、こんな感じで実にあっさり終了したのです。まあ、後のソ連においては誇張を加えてもっと派手に描かれていたみたいですが。実際は無血でした。これによりボリシェヴィキが権力を握り、その後の「ソ連」という余りにも巨大な共産主義国家が生まれる事となったのです。

ボリシェヴィキの歴史に輝かしい一ページを残した十月革命、始まりはレーニンの一言「臨時政府とか俺ら絶対認めねえから(大意)」。これが所謂四月テーゼです。実は当時の指導者層は取り敢えずの妥協としてソビエトと意見を違える臨時政府と協力し、ブルジョア革命を成立させる方針を立てていました。
と、ここで革命を理解する上でわけわからん状態になる言葉が出て来ます。ブルジョア革命。さて、ここからは十月革命の話を一旦置いてロシア史或いはソ連史における「革命」について見ていきましょう。


社会主義を見ていく上で欠かせないのが、カール・マルクスというヒゲのおっさん。高校生の方なら哲学のあたりで出て来たのではないでしょうか。その後のロシア革命にめちゃくちゃ影響を与えた凄い人です。
彼が主張するのはプロレタリアート(賃金労働者)の支配するプロレタリア社会。しかしそこに辿り着くまでは次のような段階があると言います。

封建社会

ブルジョア社会

プロレタリア社会

つまり、「いきなりプロレタリア社会に移行するんじゃなくて今の封建社会がブルジョア社会即ち資本主義社会になって、工業とかもどんどん発展して、資本主義が成熟すれば必然的に圧倒的多数派のプロレタリアートが支配する時代が来るよ!」みたいな感じです。当時の指導者層は相容れない存在である臨時政府を敢えて支持し、協力してひとまず第二段階のブルジョア革命を打ち立てようとしたのですね。
しかし、ここで我らがレーニンおじさんがドイツの封印列車に乗って亡命先であったスイスから帰還。指導者達に向かって言い放ちます。


「臨時政府とは一切協力しねえから!」


ここから彼の権力奪還闘争が始まります。ブルジョア社会→プロレタリア社会の二段階革命を信じていた指導者達をなんか凄いこじつけゲフンゲフン弁舌で説き伏せ、180度方向転換させる事に成功。かくして十月革命へ向けた動きが進められるのです。
因みに何故レーニン率いるボリシェヴィキと臨時政府の意見が食い違っていたのかと言うと、臨時政府は当時起こっていた第一次世界大戦を続ける構えでいたからです。レーニンはマルクスの教えに則り「帝国主義戦争反対」なので、臨時政府を支持しなかったのです。その考えでいくと二段階革命もマルクスの教えではあるのですが、まあそれはそれ。

なんだかレーニン氏が夢枕に立ってお説教してきそうな解説をしてきましたが、これだけでも彼の指導力と革命への執念が感じられると思います。うーん、カリスマ。やはり我らが革命の父は偉大である!


と、言ってもこのボリシェヴィキ。所属している人数で見れば、他と比べてかなりの少数派です。ボリシェヴィキは「多数派」の意ですが、これは一時的に彼らが多数派になった時にレーニンがそう名乗っただけの事。実際はメンシェヴィキ(少数派)と言われる人々の方が、数の上ではずっと多かったのです。
おまけに工業プロレタリアートの発展を掲げている為、農民が圧倒的多数を占める国内においては支持されにくい傾向にありました。その証拠として、十月革命の後に行われた選挙ではエスエル党というところに華麗なる惨敗を喫します。

しかしご安心下さい!我らが建国の父・レーニンはそんな事では諦めません。なんと武力を動員して議会を強制的に解散!見事その手に権力を掴み取ります!やったあ!ちゃんちゃん。


え、ヨシフ・スターリン?ああ、いい奴だったよ……ではなく、彼も革命や地下活動にはきちんと参加していました。その内容はと言うと、労働者の為の集会開き、党の為のサークル結成、ストライキの実行、デモの実行、論文執筆、資金集めの為の銀行強盗、同じく資金集めの為の現金輸送車襲撃、同じく資金集めの為の強請り、同じく資金集めの為のタカリなどなど。ぶっちゃけただのヤー公な気がしないでもありませんが、その結果得た資金を亡命中のレーニンに送る事によって彼の信頼を得る事に成功します。その後は色々と確執を残したまま別れた事を考えるとなんとなく切ない。レーニンの遺志はどこへ……

しかし、このレーニンとスターリンという二人の指導者は勉学に励む私達学生から見ると、なんとも不思議な立ち位置にあるような気がします。あれだけ教科書でレーニンおじさんを見せられたので「成る程!ソ連を作ったのはレーニンなんだな!」と思って調べていくと、そのレーニンは建国から僅か二年で死去。代わりに台頭したスターリンが折角作ったソ連でもう好き勝手やっているので「あ、じゃあソ連はスターリンの国みたいなものだったのかな?」と思って過去に遡ると、そのスターリンは革命中、言ってしまえばめちゃくちゃ地味。十月革命実行の際も、指揮を執ったのは後々までスターリンが目の敵にしていたトロツキーでした。
こうなると何がどうなってスターリンが独裁者の地位を確立したのか、気になりますよね?よね?それはまた来週(予定)!兎に角今日は偉大なるボリシェヴィキの革命を祝いましょう!せーの、


Ураааааааааааа!


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十弧


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