少年【the 72nd prayer】

The72thPrayer
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ざざ、と波が押しよせた。
手を伸ばしてさわろうとしたら、びっくりして逃げていった。
泣きながら母の元へ帰る小さい子のようだ、と思った。

足元の砂はひんやり冷たくて涼しい。
ここには、珍しく、大きい松の木があった。

「なぁにしゆうがぜよ。」

降ってきた声に上を向くと、じぶんと同じくらいの男の子が松の木に登っていて、枝と枝のすき間から、目を細めて覗いていた。

「なんにもしとらんよ。」

さっきの事を忘れてまた浜に遊びに来た波をながめながら言った。
そうか、と男の子はつまらなそうに言って顔を引っ込めた。

涼しい木陰にぬるい潮風が流れてくるのは、とても不思議な感覚だった。

「おい。」

また声が降ってきた。

「どこから、来たんじゃ。」

「あっちのほう。」

すっ、と海に来るまでの坂道の方を指さす。

「あっちに、また海があるんよ。そこを越えたむこう。」

ほうかぁ、とのっぺりした声で男の子は言った。枝のすき間から出ていた顔を引っ込めて、太い幹にもたれかかってあぐらをかいた。

「広島とかの方か。」

うん、と小さく返事して砂浜にしゃがみ込み、遊びにきた学ばない波に砂をかけた。
ふわ、と緩い風が頬を撫でた。

「こっから、海がきれいに見える。」

「木登りなんて出来んよ。したことないんじゃもん。」

「やってみなけりゃわからんじゃろ。」


そう言うや否や、男の子はするすると木の低い所まで降りてきて、ん、と手を差しのべてきた。

仕方がなくその手に引かれ、そこに足を開けて、そうそう、そっから此処に手を置けといろいろ言われながら、ごつごつした松の木を登った。

「よし、そこに足掛けて、こっちに登ってこい。」

ぐっと足に力を入れてふんばる。
最初はごつごつした木の肌が痛かったけれど、がまんした。

男の子が腰掛けていたのは比較的太い枝だったけれど、「落ちたら危ないき。」と幹側に座らせてくれた。

座ろうとして、体重が前に掛かって「わぁ、落ちる。」と思った時。
右肩に男の子の温かい手が置かれ、そのまま男の子の方に引き寄せられた。

「危ないの。気ぃつけ。」

うん、と頷いて見せたが、また私がよろめいて落ちると思ったのか、私の右肩にはその手が置かれたままだった。

「海、綺麗じゃね。」

「そうじゃろ。瀬戸とは違って、太平洋は広いんじゃ。しかも、海の向こうの向こうは、アメリカと繋がっとる。」

「ほんま?」

「ほんまじゃ。」

へぇ、と呟いて、海の向こうに目を凝らす。

「こんな広い場所で戦って、迷子にならんじゃろうか?」

「軍艦には、らしんばんちゅうのが付いとって、それがあるから迷子にならんのじゃ。」

「へぇ。うちじゃったら、すぐ迷子になる気がするよ…。」

ぼんやりさざ波の音を聞きながら言った。
男の子は何を思ったか、急に口に手を当てくすくす笑いだした。

「じゃろうの。うん。そうじゃろうと思うた。そういう顔をしとる。」

右肩に置いた手でわたしの背中をぽんぽん叩きながら笑った。
むぅ、と頬を膨らませて海の方を見た。

「アメリカの人も、笑っとるじゃろうか。」

「笑っとろう、向こうも人間やき。」

「向こうの人も、あなたみたいに温いんじゃろうか。」


男の子は目をまん丸にしてちょっと驚いたようだった。顔を逸らして暫く海の方をじっと見つめてから、「おれは、温いか。」と小さな声で呟いた。

行き場のなくだらけていた男の子の左手を拾って「ほら、温い。」と笑うと、男の子はちょっと照れ臭そうに、また、寂しそうに笑って、肩に置いていた手でわたしの頬を引っ張って「おまんも温いの。」と言った。


「…戦争は、いつ終わるんじゃろうか。」

ふと呟いて、はっと我に帰った。
こんなことを言ったら、ひこくみんと思われてしまう。
けれど、男の子はいつまでたってもひこくみんとは言わなかった。

「もうじき終わる。日本が負ける。」

それどころか、予想外の一言がとびだしてきた。
おどろいたわたしが何も言えないのをちらりと見て、男の子は「みな心のすみで思うちょる」と付け足すように言った。


「さいきん、ようけ爆弾が落とされるじゃろう。」

「うん。」

「爆弾を落とす飛行機にも、飛んでいく距離には限界がある。ようけ飛んでくるちゅうことは、その分アメリカが近うまで来ちゅうっちゅうことじゃ」

ばくぜんとは把握したが、詳しいことはよくわからなかった。それを理解してさらさらと言える男の子を、すごいなぁ、と思っていた。
そこから、またしばらくだまって海を眺めていた。


「明日、帰っちゃうの」


爆弾が落ちんけぇ、安全なん。
男の子は、水平線を黙って見ていた。
ちょっとうなだれて、目をつむって、何か考え事をしているように、それでも黙っていた。


「おう、気いつけよ」

太平洋のさざ波と水飛沫が、優しい音を立てた。
次の日も、晴天だった。





この日ばかりは。






嫌という程、雲のない晴天だった。





そう。





太平洋の波をぜんぶかけたら、じゅーっと音を立てて蒸発してしまいそうなほどの。






そこに少年がたったなら、一瞬にして黒くなってしまうほどの。







街が、焼けてしまうほどの。






8.6








わたしは、長い、長い、とても長い夢を見た。




広い、広い、広い海。


その砂浜の立派な松の木の上で、わたしは太平洋をながめていた。
その水平線を指差して、わたしは何か呟いて笑った。



その隣には、先程まで泣いていたらしい、目元を赤くした一人の少年が、海の彼方をいつまでも見ていた。





「少年(Little boy)」





原爆で亡くなられた方々に、追悼の意を込めて。
2017/08/06

鯉城


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