虫の日記 1月27日(土) 晴れ

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酷い騒ぎになっていた。
祖母が僕の部屋のドアをドンドンドンドンと叩いては叫んでいた。
「亮平お願い早く来て」
ノックの音がとてもうるさかったので抗議しようとドアを開けた。
祖母がおろおろ、口をパクパクさせながら焦っている。
異常な気配を察知した僕は、面白そうだから話を聞いてみた。
「おばあちゃん、コンピューターのコトはわからないから・・・・」
下の階で大変なことになってるらしかった。
ヤツの部屋に行ってみた。

布団の横にノートパソコンが置いてあった。
手をプルプルさせながらヤツがマウスをいじってる。
たまに弱々しくキーボードを叩いては「ああ・・」と嘆く。
ヤツの顔は今まで見たこともないくらい哀れだった。
顔を歪め、あの余裕の笑みなど全く影を潜め、泣きそうな顔をしていた。
祖父が「駄目か?駄目か?」としきりに聞いている。
ヤツはその声には反応せず、ただひたすらマウスをいじっては「あああ・・」と嘆いていた。
祖母が後から解説してくれた。
「なんかね、『気力を出すために』って、亜佐美からパソコンを借りてきてくれって」
大切な玩具を壊してしまった子供のように、すぐにでも泣き出しそうだった。
何かトンデモナイ事になってうのだけは理解できた。祖母の言葉が続く。
「早紀のホームペェジを見たいって・・・」
僕はパソコンに飛びついた。父親の手を払いのけ、パソコンにかじりついた。
手をはじかれた父親は、ブツブツとひたすら同じ言葉を繰り返していた。

希望の世界が・・・早紀が・・・

マウスを操作して「お気に入り」を押した。
「絶望クロニクル」よりも上に、一番押しやすい所に、見つけた。
「希望の世界」
すぐに押した。そしてほんの1秒後。

ページが表示されません

キーボードで直接アドレスを打った。アドレスは暗記していた。
エンターキーを連打した。カリカリっとハードディスクが動く音。
数秒後、画面に表示される白い背景に無機質な黒い文字。

ページが表示されません

何度やっても駄目だった。また「お気に入り」から入っても、アドレス打ち直しても。
画面を見ていたヤツが、再び「ああ・・・」と嘆いた。
そして涙声で呻いた。

早紀が・・・消えちまった・・・

その事実を認識したのか、ヤツの表情が急激に変化した。
今度は鬼のような怖い顔になった。
目をカッと見開き、憑かれたように青ざめた顔を懸命に強ばらせる。
起きあがろうとしていた。
祖父が「どうした。無茶だ」と必死に起きあがりかけた身体を支える。
ヤツの顔は鬼の顔のまま固まっていた。
怖いくらい何かに思い詰めていた。
その顔をギギギとぎこちなく僕に向けて、一言。

亜佐美に会わせてくれ

単純に、会わせなきゃ死んでしまうだろうと思った。
僕より先に、祖母が「亜佐美ね。今呼んでくるからね。」と言って駆けだした。
祖母が行ってしまったので、僕は動けなくなった。
待ってる間が異様に長く感じた。
ヤツの呼吸が激しくなっていた。ギリギリと歯を食いしばっている。
身体もプルプル震えている。
立ち上がろうとしていた。祖父の肩につかまり、必死に足を踏ん張っている。
祖父が「大丈夫か。無茶するな」とヤツを・・・僕の父親をなんとか寝かそうと説得していた。
けどヤツはそれを拒否し、鬼の形相のままフウフウ言いながら立ち上がった。
辛うじて残っている生きる意思全てを、立ち上がる行為に注いでるみたいだった。
祖母が気狂いピエロを、僕の母親を連れてきた。
母親は相変わらずノン気にヘラヘラしていた。
ヤツはその姿を捕らえると、急激に顔を緩ませた。

おお・・・亜佐美・・・

本当に、心から安心仕切ったような、とても甘い声だった。
救われた。たった一言だったけど、ヤツが救われたことがわかった。
あの殺人鬼が。こんな人間らしい声を出せるなんて。
僕は驚いていた。そしてまた、考えを改めてもいた。
こんなヤツでも、人間だったんだ。
ヤツの口元に笑みが戻った。
いつもの何処か自嘲気味た余裕の笑みではなく、優しい微笑みだった。
その表情を見た時、何処かで見たことあるような、不思議な感覚に襲われた。
遙か昔、今の人格でなかった頃、僕が子供だった頃、そのような顔を見ていたかもしれない。
強い郷愁を思わせる、掛け値ナシの、絶対的な優しさ。
そんな微笑みだった。
このおかげで顔色が良なり、見る見る回復に向かうことに・・・
なるかと思った。
しかし事態は一変した。
屈託のない、無防備な母親の一言によって。
母親はヤツの顔を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。

お化け!

いやぁいやぁと叫んで泣き出した。
次にわーんと声を張り上げ、そのまま2階へ走り去った。

あまりの突然の出来事に、僕たちはその場で固まった。
お化け。確かにヤツの髪はボサボサだし、青い顔に無造作に生えたひげなど、
あまり綺麗な格好はしていなかった。むしろ冗談交じりにお化けと言っても過言では無かった。
しかし母親は真剣に怖がった。
ヤツのその姿、もしくは殺人鬼の醸し出すオーラ?
それら全てが「お化け」に見えたのかもしれない。
その「お化け」に、今はもう子供知能にも満たないアタマを持つあの女は、
怯え、逃げた。

無言の時間が流れた。
2階から母親の泣き声が虚しく響いてた。
バタンと音がした。
音のした方を見ると、ヤツが仰向けのまま祖父の足下に倒れていた。
その顔は、まさに「呆然」と呼ぶのに相応しい・・・目は虚空を見つめ、口は半開き。
糸の切れた操り人形のように、力無く倒れている。
「気力で持ってるようなモンだ」
数日前のヤツの言葉を思い出した。
気力が操り人形の糸であるならば、その気力が無くなった今・・・
祖父が「おい」と声をかけた。
祖母が「健史?」と名を呼んだ。
そして僕は、「父さん」と言った。

ヤツは死んでいた。

いとしき


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