クラスメイト
小説最高ランク : 92 , 更新:
白い湯気が冷たい外界に溶けるように消えた。狐色に揚がった出来立てのコロッケを頬張る彼は、今、何を考えているんだろう。
僕は彼と三年近くの付き合いだが、今だに彼がどんな人物で、何が好きで、何処に住んでいるのか分からない。何処に存在しているのかさえ、あやふやだ。掴んだと思ったら砂のように僕の手から滑り落ち、全てを掴むことが出来ない。彼は大きすぎて、僕の手中には収まってくれない。
彼の名は風船。本名は忘れた。出会った頃から彼のことを風船と呼んでいたせいで、彼の本名が思い出せなくなってしまった。あの時は、確か風船ともう二三人の知らない友人が風船を囲んでいて、皆が風船のことを風船と呼ぶから、僕もいつの間にか風船と呼んでいたような気がする。彼も、出合い頭会ったことのない奴にアダ名で呼ばれても怒らないどころか嬉しそうに僕の名前を呼ぶものだから、そういう人なのだと然して気にもしなかったし、先生に訊かれても風船と言えば分かってくれるから、可笑しいことに気が付かなかったのだ。
昨夜、まだ冬休みが残っているらしい都会に住む従兄弟が家に遊びに来た時、風船の話をしたらそいつの本名は何なのだと頻りに訊いてきて僕ももう慣れてしまったものから熱心に「風船の名前は風船だ」と今思えばよく分からないことを言った。従兄弟は馬鹿らしいような呆れたような気味の悪いような、何とも形容し難い声と表情で、
「お前、三年も付き合ってるのにそいつの名前知らないのかよ」
と一言論した。そういえばそうだ。更に三年もの付き合いなのに毎年春休み、夏休み、冬休みと最低年に三回は僕の家へ来る従兄弟に一度も風船の話をしたことがないというのも気になった。
話すのを忘れていたわけではないだろうし、僕の記憶がごちゃまぜになっているわけでもない。母さんも父さんも「そう言われれば」と首を傾げて風船の記憶を思い出そうとしたが、無理だった。僕の両親は一度も風船と会ったことも見たこともなかったのだ。
可笑しい。
僕らはかなり親しい間柄だった。中学二年生の時に同じクラスになってから妙に気が合い、班も部活も受験だって同じ高校に入ろうと懸命に勉強した。風船は一年不登校だったくせに賢くて、将来は薬剤師になりたいのだと言ってレベルの高い高校を受験した。同じ高校に入ろうと約束をしていたので僕も風船と同じ塾に通って風船に勉強を視てもらいながら、なんとか入学式に出ることができた。そして今でもこうして学校の帰り道、島屋という名の精肉店でコロッケの買い食いしている。
周りが驚くほど、僕らは喧嘩が少なくて仲が良い。喧嘩をしたのだって一度切りだし、それもおふざけが九割をしめていたようなものだった。兄弟同士の喧嘩のような暖かみと侮蔑があった。
だから僕は、彼との永遠の友情を信じて疑わなかったんだ。
「ご馳走さまでした」
「早いね、悠太は」
風船の方を向くとコロッケはまだ半分しか減っておらず、風船は顔をしかめて必死にコロッケを食べていた。時折舌を出して頭を振って、またコロッケにかぶりつく。目を皿のようにしてじっと観察してもその理由が分からなかったので、食べ終わるのを待ってから満を辞して訊いた。
「何で舌を出してから頭を振って食べて、また舌を出してから頭を振って食べるのさ」
すると風船は一瞬キョトンとしてそれから細い目を更に細くして空を仰いだ。うんうん唸ったかと思うと機械仕掛けの人形のように首を上から下へと動かし、目線を僕に合わせた。
「俺、そんなことしたっけ?」
「何言ってるんだよ。コロッケを食べてる間ずっとそうしてたぞ」
「記憶にないなぁ」
「ふざけるなよ。ない訳がないだろ。あんなに何回も何回も、さも義務のようにやっていたのに」
少し強く言ってしまった。すっとんきょんな顔で吐かなくてもいい嘘を吐いた風船に苛立ったのだ。何で友人の僕にそんなことをしなくてはいけないのか。やらなくてもいいことするのか。友人、いや、親友だったんじゃなかったのかよ。
風船の態度にも苛ついたが、僕のこの身勝手な考えにも苛ついた。親友でも言いたくないことはあるだろう。もしかしたらあれは恥ずかしい癖だったのかもしれない。他人に気づかれてはとてもじゃないけど生きていけないほどの、そんないやらしい悪癖だったのかもしれない。だから風船は誤魔化したのではないだろうか。吐かなくてもいい嘘を吐いたのではあるまいか。そうだとしたら、僕は風船以上にいやらしい奴になる。
死にたかった。消えたかった。そうは考えてみたものの、いざ風船の口から悪癖だったのだ、恥ずかしい悪癖だったのだと言われれば、僕の堪忍袋の尾は切れ噴火山の如く顔を真っ赤にしながらここで哀れな彼に説教を垂れるだろう。だから僕は彼に感謝した。
「悠太が言うならそうかもね。さ、もう行こうぜ」
夕陽が西に落ちそうだ。そう言って僕の言い分も聞かず一人早足で交差点の方へ向かってしまった。一人カッと感情的になったのが恥ずかしくて今更彼のことを怒ることもできず、僕は駆け足で風船の後を追った。
狭い住宅街に備えられた交差点を左に曲がって真っ先歩くと大きく拓けた道路に出る。夕方から深夜にかけて交通量の多いこの道路には歩道橋が三つほど跨いでいて、僕らはいつも一番右にある雨風ですっかり錆び付いた赤茶けた歩道橋を渡るのだが、今日は何故か真ん中の比較的新しい水色の歩道橋を渡った。
「今日はここなんだな」
「え、知らない? 俺悠太が居ない時はいつもここを通ってるんだよ」
「そんなん俺が知るわけないじゃん。一人で?」
「二三人で」
「そ」
素っ気なく答えると途端に風船はニヤニヤといやらしい顔をして僕を小突きながら「んふ、ふふ、んふふ」と気味の悪い笑い方をして顔を覗き込んだ。そうな気がした。
「なんだよ」
「べっつにー。只、相変わらず可愛いなと思ってさ」
「お前、真逆その気がある奴なのか?」
態とらしく顔を歪めひきがえるが潰れた時のような声を漏らすと風船はまだ只ニヤニヤ笑って空を見上げ、それから地面を見下ろして遠くの方に聳え立つマンションをみやりこちらもまた態とらしく咳をした後、だとしたら? と僕の顔も見ずに言った。
だとしたら、その言葉の意味が僕は今一分からなかった。何を言いたいのか風船の意図がさっぱりと言っていいほど分からなかった。只僕の目の前に明朗快活に遊歩道を下りるコイツが何か得たいの知れない化け物のように感じ、それからの帰り道家に帰るまで風船の顔を伺い続けとうとう二日後には全くクラスメイトに成り下がってしまった。
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