太宰治の「如是我聞」から

文豪 文学
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最高ランク : 12 , 更新: 2021/02/23 3:04:32

お久しぶりです。書くことが思いつかなかったので、また志賀直哉関連で太宰治の「如是我聞」から、太宰治と「弱さ」について少しまとめたいと思います。


「如是我聞」、有名なやつですよね。電子辞書にも載っていますし、漫画アニメから太宰を知ったという人はかなりの割合で読んでるんじゃないかなという偏見。


後半は志賀直哉に対する悪口のオンパレードで、読んでいてとにかく面白い。当事者じゃないからこその面白さではあるんですけどね。


「如是我聞」の何がやばいって、ほかでもない志賀直哉に喧嘩を売ってるところなんです。


当時志賀直哉は著作の「小僧の神様」をもじって「小説の神様」だなんていわれてしまうくらい影響力が強く、志賀直哉の小説があるべき理想の姿だとされていました。


そんな志賀直哉に喧嘩を売るなんて、文壇から追い出されてもおかしくなかったんじゃないでしょうか。


まぁ、太宰治自身は「如是我聞」の四つ目の原稿を執筆した一週間後に亡くなっているので。


好きな文章を抜き出せばキリがないのですが、特に有名な部分を挙げておきます。


「さらにその座談會に於いて、貴族の娘が山出しの女中のやうな言葉を使ふ、とあつたけれども、おまへの「うさぎ」には、「お父さまは、うさぎなどお殺せなさいますの?」とかいふ言葉があつた筈で、まことに奇異なる思ひをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥づかしくないか。」(『太宰治全集第十巻』319ページ5行目)


言葉遣いが変だと指摘されて、指摘し返しているところですね。


エディタを展開してもルビが振れなかったので、お殺せに強調の黒点をつけられませんでした。正確な引用にできなかったことをお許しください。


この「お殺せ」を批判したうえで、彼はこの文章の結びに、


「ヤキモチ。いいとしをして、恥づかしいね。太宰などお殺せなさいますの?賣り言葉に買ひ言葉、いくらでも書くつもり。」(同上326ページ13行目) ※同じくお殺せに黒点。


と書いています。お殺せを変な言葉だと指摘したうえで自分も最後に、しかも相手への呼びかけで使うっていう。


皮肉っぽくていいですね。


太宰治の敬語は確かに「ん?」ってなるものがあったりします。なんにでも「お」をつけているイメージ。


敬語を巡ったこのやり取りに、坂口安吾が「不良少年とキリスト」で言及しています。


「「斜陽」には変な敬語が多すぎる。(中略) 作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気な筈なのに、実にフツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。
まったく、こんな赤面は無意味で、文学にとって、とるにも足らぬことだ。
ところが、志賀直哉という人物がこれを採りあげてやッつける。つまり、志賀直哉なる人物が、いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかであるが、ところが、これが又、フツカヨイ的には最も急所をついたもので、太宰を赤面困惑させ、逆上させたの相違ない。」(『不良少年とキリスト』222ページ9行目)



随分と長くなってしまいました。簡単に言うと、確かに変な敬語は多いけど、文学的には何の問題もないんだから堂々としてればいいのに、フツカヨイ的には一番指摘されたくなかった場所だったからめちゃくちゃ切れてやり返したんだろうねという。


んー、フツカヨイ的ってなんでしょうね。


いや、如是我聞の紹介だけでなんでこんなに文字数言ってるんだ。本題に何も触れられてない。



「如是我聞」には何度か、「弱さ」についての記述があります。


いくつか引用します。


「一言で言はう、おまへたちには、苦惱の能力が無いのと同時に、愛する能力に於いても、全く缺如してゐる。おまへたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
おまへたちの持つてゐる道德は、すべておまへたち自身の、或ひはおまへたちの家族の保全以外に一歩も出ない。
重ねて問ふ。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行ふは罪なりや。
私は、自分の利益のために書いてゐるのではないのである。信ぜられないだらうな。
最後に問ふ。弱さ、苦惱は罪なりや。」(『太宰治全集第十巻』316ページ6行目)


いのちがけで事を行う、というのはこの「如是我聞」を書いていることなんですかね。



「も少し弱くなれ。文學者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまへの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ。」(同上323ページ17行目)


この、「おまへの流儀以外のもの」というのが一個上に挙げた文章の「おまへたち自身、或ひはおまへたちの家族の保全以外」ということになるのではないかなぁと思います。


志賀直哉が理想形とされ、彼を目指さない文学者が異端とされてしまうのをよく思っていなかったのでしょうか。


頂点に君臨しているにもかかわらず、ピラミッドに組み込まれないものを排斥するきっかけを自ら作ってしまう。


彼の言葉は絶対的な力を持ってしまっている。


言葉一つで排斥されそうになるんじゃたまったものではありませんよね。



「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦惱がまるで解ってゐないことである。
日蔭者の苦悶。
弱さ。
聖書。
生活の恐怖。
敗者の祈り。
君たちには何も解らず、それを解らぬ自分を、自慢にさへしてゐるやうだ。そんな藝術家があるだらうか。知ってゐるものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしてゐる。」(同上325ページ14行目)


太宰治が芥川龍之介を崇拝していたのは周知の事実ですね。


芥川龍之介は、小説がうまく書けなくなってきた時期に、志賀直哉を尋ねて、志賀直哉が小説を書かなかった三年間のことをしきりに尋ねたそうです。


それに対して志賀直哉は、「一二年書かない期間を作ってみればいい」と答えたそうですが、金持ちの家出身で多少稼ぎがなくともやっていけた志賀と違い、芥川は家族を養うためには書き続けなければいけなかったこと、人気作家として新作を期待されていたことから、結局筆を置くことができず、「ぼんやりとした不安」の中に苛まれることとなりました。


研究方面にも行ける人間だと思ってのアドバイスだったらしいですが、立場が異なる同士での人生相談は難しいものですね。


「日蔭者」という言葉がありました。これは「人間失格」でも言及されていたので載せておきます。



「日蔭者、といふ言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、惡德者を指差していふ言葉のやうですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のやうな氣がしてゐて、世間からあれは日蔭者だと指差されてゐる程のひとと逢ふと、自分は、必ず、優しい心になるのです。」(『太宰治全集第九巻』396ページ9行目) ※生れた時からの日蔭者に黒点


引用はしませんが、弱者に対して優しい気持ちになるというのは、「燈籠」に出てくるさき子と同じですね。


社会的地位の高い志賀に対し、生まれた時から弱者という意識のあった太宰。相容れないのは仕方がないのかもしれません。


没年がわからず、まんまの文章を載せる事は出来ないのですが、太宰治についてとある評論で、


「太宰は志賀と違って実生活を選択して構想する自力的なエネルギーが失われてしまったから、自分の感受性に従って自分の真実を見つけるためには、実生活を堕としていくしかなかった。」


ざっくりまとめるとこんなことが書かれています。


実生活を堕とした結果、



「あなたは文藝春秋九月號に私への惡口を書いて居られる。「前略――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文學観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に發せざる憾みがあつた。」」(『太宰治全集第十巻』26ページ1行目)


「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪黨だと思つた。」(同上28ページ1行目)



うーん。難しいね。芥川を崇拝していたからこそ何としてでも芥川賞をとりたかった太宰。


「川端康成へ」という文章なのですが、実生活を堕とさなければ真実を見つけられなかったのに、実生活によって憧れを取り落とすとか、そらブチギレますよね。



小鳥を飼って舞踏を見る、これが太宰の考えるお貴族様だったのでしょうか。




ここまでずいぶんと長くなってしまいました。


挙げたいくつかの文章を見ていると、強者になって認められたいというよりも、弱者の立場から文学を愛したいという印象を受けます。


文学を愛し、弱者を愛し、弱者の苦悩を認めていたからこそ、それが強者の一回の腕振りだけで跳ね除けられてしまうことが許せなかったのかなぁと。


うまく言葉でまとめられなくて申し訳ありません。


「如是我聞」、とても痛快で「そんないい方しちゃうの!?」と驚かせられる第三者から見れば面白い文章です。


おすすめなのでぜひ気になる方は読んでみてください。


岩波文庫の人間失格や、一部の電子辞書などにも載っていると思います。


いつか「人間失格」についてもなんか書けたらいいなぁ。


最後に、昭和発行の全集から引用しているため、当然ながら旧字体の使用が多いです。ご要望があれば引用した部分のあとに読み仮名を添えるなどはしますので、ご連絡ください。




参考文献

・『太宰治全集』筑摩書房 第二巻、第九巻、第十巻 昭和三十年、三十一年
・『太宰治研究』筑摩書房 昭和三十一年
・坂口安吾『不良少年とキリスト』新潮文庫 令和元年

lemon1925kazi


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